目線を変えると・・・こんなにも張禧嬪の人物像が変わるのね。
・・・という新たな発見でした

そして粛宗も ただ単にデレデレの王ではなく・・・しっかり政治に携わって王として立派に成長していく姿として描かれていて面白かったです。
ユ・アインの粛宗 ユ・アインのためのドラマでした。

すみません・・・キム・テヒさんはあまり好きではないので・・・
純愛に関しては・・・冷めた目で見ちゃいました。全然 お似合いではないもん

純愛ドラマを そんな目で見ていては…ダメですね

しかし…純愛重視のためにかなり史実を彎曲していました。
誤って覚えてしまうといけないので・・・・覚書を残しておきます。

・・・・・・・
女性の年齢と男の性も関係あるのじゃないかなぁ~

若いときは年上女性に憧れ・・・次は 若い女性に目が行く・・・
粛宗21歳 15歳(仁顕王后)

23歳(張禧嬪氏)
粛宗31歳 22歳(淑嬪崔氏)

33歳(張禧嬪氏)
粛宗42歳 仁元王后16歳 息子と2歳しか違わないため手を出さなかったのか?
ウィキペディアによると・・・側室もいっぱいいたみたいだから
政治がらみなのか?純愛なのか?は本人しかわからないわね。
大嬪宮玉山府大嬪(仁同張氏)
毓祥宮和敬徽徳安純綏福淑嬪(海州崔氏)
榠嬪 朴氏(?〜1703年)
寧嬪 金氏(1669年〜1735年、新安東金氏)
貴人 金氏(1690年〜1735年)
昭儀 劉氏(?〜1688年)
尚宮 李氏
尚宮 朴氏
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中殿(チュンジョン:중전)は王の正室であるため品階を超えた存在であり、内命婦の統率者
内命婦(ネミョンブ:내명부)・・・宮中の後宮や宮女の総称
後宮
・嬪(빈、ピン、正一品)
・貴人(귀인、クィイン、従一品)
・昭儀(소의、ソイ、正二品)
・淑儀(숙의、スギ、従二品)
・昭容(소용、ソヨン、正三品)
・淑容(숙용、スギョン、従三品)
・昭媛(소원、ソウォン、正四品)
・淑媛(숙원、スグォン、従四品)
尚宮(상궁、サングン)を始めとする正五品以下は職務に従事する女官たちであった。
肅宗(スクチョン)1661年旧暦 8月15日(9月8日)生
★王妃
仁敬王后(インギョンワンフ)1661年生 同い年
★王妃
仁顕王后(イニョンワンフ)1667年生 6歳年下
粛宗の母、明聖王后( ミョンソンワンフ)の推薦により入宮
1681年 王妃となる 15歳
仁顕王后は王妃に立てられてから6年(21歳)を経ても子供に恵まれなかった
★(王妃)
禧嬪張氏ヒビン チャンシ 張禧嬪(チャン・ヒビン) 1659年生2歳年上
1680年10月から1681年3月の間に宮廷から追われた
1686年 「美貌に秀でた」張氏を再度、後宮に送りこみ、承恩尚宮(スンウンサングン、正五品相当)
1686年12月10日「淑媛」(スグォン、従四品相当)
1688年 「昭儀」(ソイ、正二品相当)
同年10月27日 王子李昀(後の景宗)を生む
1689年1月15日 その功労によって「嬪」(ピン、正一品相当。側室の最上位)
同年5月2日、禧嬪張氏と南人派の策略によって仁顕王后は廃位 己巳換局(キサファングク)
1690年10月22日に張氏が王妃に冊立された
★淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)1670年生9歳年下
(「トンイ(同伊)」ハン・ヒョジュ)
1692年 仁顕王后の誕生日4/23の1日前に、王后の誕生日を秘密裏に祝っていたところ、夜歩きをしていた粛宗(スクチョン)と出会う
後日、承恩尚宮(スンウンサングン)となる。
1693年4月 第一子の懐妊が判明)淑媛(숙원、スグォン、従四品)
1694年 第二子の懐妊 淑儀(숙의、スギ、従二品)
1965年 従一品(チョンイルプム:종1품) 貴人(クィイン:귀인)
1699年 淑嬪(빈、ピン、正一品)
張禧嬪が妊娠した淑嬪崔氏をしたたかに打ち、縄で縛り、甕を被せ、突然訪れた王の目をごまかそうとしたがばれてしまい、王の寵愛を失った
南人派に押さえつけられた西人派は仁顕王后の復位運動を展開(閔氏重定運動)
1694年4月12日 張氏は王妃から「嬪」に格下げされ 仁顕王后が復位(甲戌換局)。
1701年 仁顕王后が病没すると、西人派は王妃の死は張氏が巫女を使って呪詛したためだと誣告した。
1701年10月10日 張氏は粛宗から賜薬により処刑された。
★王妃 第2継妃(ケビ)
仁元王后(イノンワンフ/イヌォンワンフ)1687年生まれ 26歳年下
1702年10月13日
粛宗42歳、淑嬪崔氏32歳、仁元王后16歳、世子・昀(ユン:윤)14歳、延礽君(ヨニングン:연잉군)昑(クム:금)8歳
淑嬪崔氏が生んだ王子・「延 示乃 君(後の英祖)」を非常に可愛がった。
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