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❤ヨンジョ(英祖)1694 ~1776 83歳
李氏朝鮮第19代国王の粛宗の次男であり、第21代国王。
66歳の時(1760)に当時15歳であったチョンスン王妃を後妻として娶る。
❤貞聖王后 1692 ~ 1757
❤チョンスン(貞純)大妃・慶州金氏 1745 ~1805 60歳
王妃→英祖王の死後、王大妃(ワンテビ)となる。英祖の正室。
❤映嬪李氏
英祖の側室。
身分の低い井戸水汲み女官
和平翁主・和協翁主・和緩翁主(ファワン)・思悼世子(正祖の父)
❤ムン(文)淑儀(スギ)
英祖の側室。
❤サド(思悼)世子(セジャ)1735/2/13~ 1762/8/12
英祖の側室・映嬪(全義李氏)の息子
1744年 婚姻
精神を蝕まれた王世子は奇行を犯すようになり、1762年に廃位させられ王命により米櫃に閉じ込められ数日後に刑死した。
後に真相を知り息子が無実だと知った英祖はこれを悔やんで「思悼(サド)」と追悼し、1777年にはサンが即位後、「荘献」(チャンホン)と追尊した。
❤ヘギョングン(恵慶宮)・豊山洪氏 1735/6/18~ 1815/12/15 81歳
嬪宮(ピングン)→恵嬪(ヘビン)→正祖が即位後は恵慶宮(ヘギョングン)。
サンの即位後、ソンヨンが正祖の側室に入れる意思を孝懿王妃から聞いた時に身分が低い事を理由に激怒するほど身分にこだわった。
❤イ・サン(李祘)・チョンジョ(正祖)1752/10/28~1800/8/18 47歳
世孫(セソン)または世孫邸下(セソンチョハ)
王に即位してからは主上殿下(チュサンチョナ)
お忍びの際には必ずイ・ムドク(李武徳)
1759年 約婚
1762年 婚姻
11歳の頃に老論派の陰謀によって父が刑死させられる直前にソン・ソンヨン、パク・テスらと出会い、身分を超えた友情を結ぶ。
英祖の長男である孝章世子の養子となり、英祖の後継(世孫)となる。
25歳で即位する際には、「私は、サド世子様の息子だ」と臣下に向かって宣言し、父の無実と正当性を示した。
❤ヒョイ(孝懿)王妃・清風金氏 1753 ~ 1821 71歳
嬪宮(ピングン)→正祖即位後は王妃となる。
1762年 正祖の正室。10歳の時、サンと婚姻する。
1776年 王妃となる。
1800年 大妃となる。
❤ウォンビン(元嬪)・豊山洪氏 1765~1779 14歳
1778年 ホン・グギョンの妹(実際の名前は不明)で正祖の最初側室。
❤ファビン(和嬪)・南原尹氏1765/4/11~1824/1/14 59歳
1779年 大臣ユン・チャンユンの娘で正祖の2番目の側室。
1子 翁主 1781年(天折)
❤❤ソン・ソンヨン(成松淵)・宜嬪昌寧成氏 1753/7/8~1786/9/14 33歳
ファビン(和嬪)・南原尹氏付きの女官であったが側室にした。
入宮初日に正祖(サン)と縁を結び、承恩尚宮(スンウンサングン。
王の寵愛を受けた女性に与えられる位階)になる。
1782年 正祖の最初の王子(元子、ウォンジャ)であるヒャン(2子)を産み、 彼を世子とする為に正一品宜嬪に叙せられ、 宜嬪成氏(ウィビン・ソン氏)となるが、世子(ムニョ(文孝)世子(セジャ))をはしかにより喪う。4歳
1784年 宣嬪(3子 早卒)
1786年 懐妊 母子共に死去
❤スビン(綏嬪)・藩南朴氏 1770~1822 52歳
正祖の側室。
子女に李氏朝鮮第23代国王となる純祖(4子 孝懿王妃の養子)と淑善翁主(5子)がいる。
❤ファワン(和緩)翁主)
英祖の側室・映嬪(全義李氏)の娘でサドセジャの同母妹。
サンの叔母にあたる。
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思悼世子が亡くなったのが・・・・1762年8月12日
同じ年の1762年に 李祘(11歳)と孝懿(10歳)は婚姻している。
・・・で、mamaにとっては・・・何月何日かが重要
英祖38年2月
新暦に直しても・・・1762年3月くらいよね?
3人が出会ったときには・・・既に結婚していた訳じゃない
え~~~~~そんな事微塵も感じさせなかったわ
ソンヨンに会いたいソンヨンが行方不明
って大騒ぎをしているけれどぉ~
仲良く妻と お菓子 “梅雀菓”(メジャックァ)を食べちゃったりしているし~
どうもmamaは心が狭くて・・・・・・
サン役のイ・ソジン氏 34歳
テス役のイ・ジョンス氏 31歳
2人は20歳・・・2人は20歳・・・2人は20歳・・・・ダメだぁ・・・自己暗示にもかからない